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2019年10月 7日 (月)

二人のマルクス

いつもブログをご覧くださっている皆様、お久しぶりでございます。そして、初めてお越しくださった方々、初めまして。マーティン・ベンジャミンでございます。

私は、あまり変化を好むタイプではないのですが、最近あることが徐々に変わっております。それは……本です!

Books

この恐ろしいほど危険な紙の塔は「これから読むつもりの本」でございます。きちんとした人であれば、「この本を読んだ後に新しい本を買おう」と思うでしょう。しかし、ここで私は中毒者であることを告白しなければなりません。どこかで本を見かけると「あぁ、面白そうだな」と思ってしまい、気がつくと本の塔がまた大きくなっているのです。きっと、そのうちバベルの塔のように崩れてしまうでしょう。(言語も同じく散らばってしまうことになるか?)

最近、特によく読むようになったのは哲学の本です。塔の中に、カントやらヘーゲルやらフーコーやらが見えるでしょう。実は、この哲学のウサギ穴に落ちるきっかけとなったのは、哲学本と言えるかどうか曖昧な、マルクスの『資本論』です。長い間マルクスに興味はあったのですが、やはり興味を持っているだけではもったいないと思い、今年の春に第1部と第2部が組み合わさった巨大な本を買いました。ワクワクしながらページをめくると、「Section 1: The Two Factors of a Commodity: Use-Value and Value (The Substance of Value and the Magnitude of Value)」が目に入りました。

「ほ、ほう」

私の頭の中にあった、他人から聞いて想像していたマルクスは、やはり理想化されたイメージに過ぎませんでした。私が作り上げたマルクスは、扇動者で、雄弁で、とても興味深い歴史に残るべき人間でした。しかしながら、現実に生きて『資本論』を書いたマルクスは、民衆を導く自由の女神に象徴さるような人物ではなく、大学の終身在職権を持っているために経済のクラスで学生が4人しかいなくても気にしないような、学究的なおじさんでした。

正直に言うと、数ページ読んだ後、少しがっかりした気分でマルクスは本棚に置き、代わりに、より興奮させてくれる、素直なクロポトキンの著作を読みました。しかし、それからずっと、頭の中でマルクスの不満そうな顔が見えていました。あんなに興味を持っていた本を、数ページ読んだだけで諦めるなんて、自分は読書家といえるのでしょうか? その後も定期的にマルクスの概念をネットで検索しました。概要を読むと、とても面白そうに思えます。そして、ますます読むのを諦めた選択を後悔するようになりました。

「やっぱり、哲学の本として読まなかったのが問題だ。マルクスより前に基礎を作った哲学者の本を読んでからにすれば、ちゃんとわかるだろう」そう思い、ある意味でマルクスの精神的な師匠であったヘーグルを読むことに決めました。しかし、ヘーゲルの前にも、西洋哲学に絶大な影響を与えた避けては通れない人物がいました。イマヌエル・カントです。

そういうわけで、私はカントの『純粋理性批判』と、ヘーゲルの『精神現象学』を(消費税が10%になる前に)買いました。これでちゃんとマルクスを読めるだろうと思い、カントを読み始めました。『純粋理性批判』(中山元訳/光文社)はこう始まりました。「わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。認識能力が対象によって呼び覚まされて活動し始めるのでなければ、そもそも何によって動き始めるというのだろうか」

さすがカント、さっそく脳を困らせる哲学的な発想について話し始めました。何とかついていけると思い、序論を読み進めます。ところが、読めば読むほど脳の状態は困難から混乱に変化していきます。そして、序論が終わり、カントが空間と時間がなぜ経験的認識に先立つ先天的な存在であるかを説明している部分で降参しました。西洋哲学の父親とは言えても、やはり私にとっては複雑すぎるテーマでした。カントはあとでネットなどのガイドを読みながら学ぼうと考え直し、次にヘーゲルの『精神現象学』を手に取りました。マルクスに一番影響を与えたといえるヘーゲル。彼なら信頼できるでしょう。英語ですみませんが、ヘーゲルの始まりはこうです。「The knowledge or knowing which is at the start or is immediately our object cannot be anything else but immediate knowledge itself, a knowledge of the immediate or what simply is.

英語ネイティブでも脳が痛むほどの漠然とした文。最初の一文で本を読むのを諦めた経験は、ヘーグルが初めてだと思います。『精神現象学』を本棚に片付けた私は、とても残念な気持ちでした。「もしかしたら哲学には向いていないかな」と思いました。でもまだ本棚の前にいましたので、昔のよしみで『資本論』を取り出し、読み始めました。

すると驚きました。「おや、意外と簡単な説明!」それまでとても難しい哲学の本を読んできたので、空気が薄い山の上を走っていた走者が、標高の低いところへ下りてきたような気分でした。何の役にも立たなかったと思ったカントとヘーゲルたち、実は大きな助けになってました。虹の色ほど多いような価値の種類をすぐに述べるのは勘弁して欲しいですが……

そして今、私はマルクスを楽しく読んでいます。「本が難しくてすべてはわからなくても、進歩はある」と知りました。難しい本に出合ったときは、すぐに諦めるより、今すぐではなくても、そのうち進歩を感じられるという自信を持てばいいようです。

ん? そんな分厚い本を読んでいると「これから読むつもりの本」の塔がますます大きくなってしまうと? まぁ、読書力の進歩が見えたとしても、文学的な強欲(マモン)の表れとして、これからも抑制なき道を行くことになるでしょう。多分。労働価値説をより知るために『国富論』を買った後に。

コーディネーター マーティン・ベンジャミン

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