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2018年12月

2018年12月11日 (火)

美味しいリマ、不思議なナスカ、幻のマチュピチュ

子どもの頃の将来の夢は考古学者。今年(2018年)の春、長年の夢だったマチュピチュとナスカの地上絵を見に、ペルーに行ってきました。首都リマまで、成田からロサンゼルス経由で約24時間のフライト。地球の裏側に向かう感覚です。

降り立ったリマはヨーロッパの大都市のよう。街並みもスペインによく似ています。それもそのはず、リマはスペイン人征服者フランシスコ・ピサロが1533年にインカ皇帝アタワルパを処刑した後、南米の植民地支配の拠点として建設した街。水脈に恵まれた肥沃な渓谷にあり、海岸線に面しているため、スペインからの軍隊の派遣や物資の補給に最適な場所でした。

スペイン人たちはインカ帝国(15~16世紀)の莫大な金銀を奪って溶かし、そのほとんどを本国に送ってしまったといいます。また、先住民を徹底的に弾圧して混血化を進め、スペイン人>メスティーソ(混血)>インディオ(先住民)>アフリカから連れてきた黒人奴隷、というカーストのような身分制度を作り上げて支配を強めました。この差別的な制度は19世紀まで続き、インディオたちに重労働を強制し続けた結果、その人口はインカ帝国全盛期の10分の1まで減少したといいます。インディオの人びとの中には現在も民族衣装を着て観光客相手の土産物売りや写真の撮影協力などをして生計を立てている人がいて、恵まれない環境はいまだに続いている印象でした。

12 (写真:土産物売り)

2 (写真:アルパカと)

クスコ(アンデスの高地にある、かつてのインカ帝国の首都)とマチュピチュを案内してくれたガイドさんも先住民の出身で、日本にも留学経験があるインテリでしたが、「僕にも30パーセントぐらいスペイン人の血が流れているのですが、いまだにスペイン人は嫌いです」と複雑な思いを吐露していました。

すべての元凶となったピサロ自身も、スペイン人同士の内紛で暗殺。その遺体は今もリマの大聖堂に安置され、大邸宅の跡地は大統領府となっています。

32 (写真:リマ大聖堂)

4 (写真:大統領府)

リマで驚いたのは食生活の豊かさ。公設市場を訪れると、たくさんの種類の色とりどりの野菜、果物、ハーブ、スパイスが取り引きされています。フンボルト海流のおかげで魚介類も豊富。果物屋ではパッションフルーツ、トゥナ(ウチワサボテンの実)、バナナ、ホオズキ、パカエ(ソラマメのような果物)、マンゴー、チリモヤ(世界三大果物の一つ)、マンダリーナ(日本の和歌山原産のミカン)などを味見させてもらいました。

5_3 (写真:果物屋)

6_3 (写真:八百屋)

7_3 (写真:トウモロコシ)

野菜に関してはペルーはジャガイモ、トマト、トウモロコシ、チリ(トウガラシ)の原産地だけあって、それぞれ何種類も並んでいて、買いに来る人びとも料理によって使い分けているそうです。料理はインディオ、スペイン、アフリカ、さらには中国や日本からの移民の味が混ざり合い、「セビーチェ(魚介類のマリネ)」や「ロモサルタード(牛肉とタマネギとトマトの醤油炒め)」などは日本の食卓に上っても違和感がないほど。最近日本でも注目されるようになったスーパーフード「キヌア」のスープも美味しかったです。紫のトウモロコシのジュース「チチャモラーダ」や黄金色のコーラ「インカコーラ」もよく飲まれていました。

8_2 (写真:セビーチェ)

9_2 (写真:ロモサルタード)

10_2 (写真:キヌアのスープ)

11_2 (写真:チチャモラーダ)

肉に関しては牛肉と鶏肉がよく食べられているほか、羊肉やアルパカ肉も普通に出てきます(豚肉はあまり食べないそう)。また、お祭りのときにはごちそうとして「クイ」と呼ばれる食用モルモットを食べるそうで、あちこちのレストランのメニューにモルモットの丸焼きの写真がまるで子豚の丸焼きのように載っていましたし、クスコの民家では食用に飼育しているクイも見かけました。以前、長野の伊那谷に知人を訪ねたとき、お正月のお雑煮に使うためにウサギを飼育していたのを思い出しました。地方によっては猫も食べるそうで、そういえばどこの街でも野良犬は見かけても野良猫は見かけませんでした。

Photo (写真:クイ)

ナスカは年間降水量1~5ミリという極端に乾燥した広大な砂漠でした。首都リマから車で片道4時間。早朝のほうが視界がクリアだというので、朝3時にリマを出発。世界各国からの観光客目当てに建てられた小さな「国際空港(自称)」から12人乗りの小型セスナ機に乗り、風紋が刻まれた砂の大地の上を30分ほど飛ぶと現れる盆地状で無風地帯となっている大平原に地上絵はあります。

12_2 (写真:ナスカ遊覧飛行用セスナ機)

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(写真:遊覧飛行でめぐる主な地上絵の分布図)

地上絵の正体は、古代ナスカ(BC1世紀~AD7世紀頃)の人びとが、地表から5センチほど砂利を取り除いてその下にある白い砂地を露出させた一筆書きの線。雨が降らないために水に流されることなく、千数百年も残っているのだそうです。よく知られている動植物の絵はわずかで、直線や幾何学図形が圧倒的に多く、その数700とも800ともいわれています。見渡すかぎりの線、線、線で傷だらけの大地という印象。数百年前の地上絵も昨日通った自動車のタイヤの痕も平等についているのです(有名になるにつれて押し寄せる観光客に踏み荒らされて、一時は地上絵消滅の危機に陥ったこともありました。現在は修復作業も進み、許可なく地上絵周辺を歩くことは禁じられています)。

Photo_2 (写真:コンドル)

14 (写真:サル)

15 (写真:宇宙飛行士)

16 (写真:幾何学図形)

地上絵の近くまで来ると、セスナ機は高度を落として右に左に旋回。日本人観光客が乗るセスナ機では副操縦士が「コンドル」「サル」「ウチューヒコーシ」などと片言の日本語で教えてくれます。飛行機が通常飛んでいる高度では絵の存在はわからず、地表にかなり近づかないと見えないので、「地上絵が宇宙人との交信に使われた」というセンセーショナルな説は眉唾だということがわかります。

事実、30代から90代で亡くなるまでナスカに住み、地上絵の発見、研究、保護に人生を捧げたドイツ人の女性数学者、マリア・ライヘ(1903~1998年)が建てた高さ20メートル程度の観測塔からも「トカゲ」「木」「手」と呼ばれる絵ははっきりと見えるそうです。マリア・ライヘの生涯については生前の彼女を訪ねてインタビューしたものをまとめた、楠田枝里子著『ナスカ砂の王国』(文春文庫)がお薦めです。

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(写真:左からトカゲ、木、手。中央の道路沿い、木と手の間に見えているのが観測塔)

ナスカの翌日、リマの空港から旅客機で標高3400メートルのクスコに向かい、そこからバスでオリャンタイタンボ駅に出てペルー鉄道の展望列車に乗り、マチュピチュ(標高2430メートル)の麓の村へ。一晩泊まって身体を慣らしてから翌朝、マチュピチュに登ったのですが、急斜面に建ち並ぶ遺跡を目の前にして高山病症状(低酸素による頭痛、めまい、息切れ)を起こして意識が遠のき、地元の救急隊に担架で運ばれ、救護室で数時間酸素吸引を受けるハメに。午後からは天候が悪化して土砂降りとなり、マチュピチュ探訪は断念しました。遺跡の前で撮った写真だけが残っています。

18_2 (写真:マチュピチュ)

前の晩、遠足前夜の子どものように興奮してよく眠れなかったのが敗因だと自覚していますが、同じツアーに参加していたはるかに人生の先輩の方々が無事遺跡の見学を果たし、ナスカの地上絵にも描かれていたハチドリにも遭遇したと聞いて、 臍(ほぞ)を噛みました。まさに後悔先に立たず……。

翌日再訪したインカ帝国の首都クスコや標高3000メートルの高地にあるマラスの塩田など、まだまだ書き足りないのですが、それはまたの機会にしたいと思います。

sandclock コーディネーター青山 airplane

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